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2008年11月 1日 (土)

他者の自己化

「自分のことに置き換えてみれば、そんなことを他人(相手)に対してしてはならないということがよくわかるだろう!」

自分勝手な行動をしてしまった場合、こんなふうに戒められることは、よくあることだ。自分がされていやなことは、他者に対してもしない。

ところで、この考え方の背景には、「他者を自己化する」ということがあるらしい。あるいは、自分が前提としている、いわば「理性的」「常識的」な規則を前提として、他者に対して配慮するということになろうか…

しかし、同じ前提で、「自分がされてうれしいことを、他者に対してもしましょう」ということになると、事態はちょっと変わってくる。

たとえば、「ケア」という臨床の現場では(現在の「ケア論(ケアの倫理)」では)、看護が必要な患者に他者を自己化して応答することが批判されている。理由は、パターナリズム(看護する側の善意のみを根拠として対処すること)に陥るからだ。

医療問題の議論において、アメリカにおいて1970年代から、パターナリズムに対する批判は主流を占めるようになった。パターナリズム、つまり、医療行為者側の善意のみを根拠とする医療行為の在り方だと、患者が不在となるからであり、患者が「対象」とされてしまうからである。あるいは、介護する者(医療行為を行う者)と介護される者(医療行為を受ける者)との乖離が生じることになるからである。医療の場は常に介護する側(医療行為をする側)が支配的な存在であったという批判である。平たく言えば、医療行為者がよかれと思ってすることが、患者にとって全面的に、常に、最良のことだとは限らない、ということだ。

患者を中心に据えた医療行為の在り方は、とりわけ生命倫理(学)が「患者の自己決定権(自律)」という概念によって、パターナリズム(従来の医療者中心的な医療の在り方:医療倫理)批判の過程で確立してきたことである。

さらに近年では、生命倫理で展開されてきた「自己決定権」の再検討が始まっている。たとえば、「自己決定権」が前提する「倫理」はどこに、どのように設定されるべきなのか、という議論である。「倫理」が医療行為の「手まえ」にあるだとすれば、はたしてその根拠があるのだろうか…。

あるいは、「患者の自己決定権」の尊重の前で、医療行為者は全面的に自己を犠牲にしなければならないのか、という議論もある。ここでの話題なら、この議論の方が親しいであろう。患者を尊重するあまり、医療行為者(介護者)がすべからく患者に従う…ということは、常識的に考えても、違和感があろう。

ケア論(ケアの倫理)では、「相互主観性」という立場を主張する傾向が強いようだ。「相互主観性」とは、現象学の用語で、理解するにはかなり困難を要する(この用語を持ち出したものの、実はよくわかっていない)。不十分な理解をもとにして、簡単に述べれば、医療行為者と患者との相互コミュニケーションを重要視するということである。

「相互コミュニケーション」と言ってしまえば、「なんだ、お互いに理解し合うということか」と思えてしまうが、実のところ、事態はそう簡単ではない。患者に応答する際、医療行為者が自分に置き換えて考えてしまうということは不可避だからだ。つまり、「他者の自己化」となり、パターナリズムに陥ってしまう。そうかといって、患者を「対象」とすることは、患者と医療行為者の乖離を招いてしまう。

他者を自己化することなく、他者を対象化することもしない。はたしてそんなことは可能だろうか。

このことは、医療ケアの問題だけでなく、広く一般に「コミュニケーション」の問題でもあろうことは、日常的な人間関係を顧みれば、すぐにわかることだ。ただ、医療の場では、日常生活の場とは異なり、医療行為者と患者とが置かれた状況がかなり深刻なものであることは確かである。しかし、個人的なレベルにおいてすら、家族にしろ、職場・学校にしろ、地域社会にしろ、あるいは恋愛関係にしろ、人間関係がそれほど容易な事態にないことは、誰しもが気づいているはずである。

ケアの倫理においては、患者を他者(絶対的な他者として、つまり自己化できない存在として)として接することが求められている。パターナリズムに対する強い反省があるからであろう。しかし、生命倫理が主張してきたような「患者の自己決定権」を絶対視することには、距離が置かれている(むしろ批判的だ)。そこで目指されているものが、「相互主観性」とか、「他者に対する配慮」(エマニュエル・レヴィナス的な着想だそうな。レヴィナスに基づいたその考え方は理解できていないので、ここでは深入りしない)とか、ということらしい。

医療の場におけるケアの問題についての深い議論は別の機会に譲るとして、以上のような概観から、話題を最初のことに戻すと、どうやら「自分がされていやなことは相手に対してもしない」と「自分がされてうれしいことを相手にもしましょう」との間にはかなりの距離があるのではないか、と思う。この距離にこそ、それが医療の場であれ、日常的な人間関係であれ、「相互コミュニケーション」が成立する「間隔」が存在するのではないだろうか。問題なのは、その「間隔感」ではないのだろうか。

両者の距離が狭まると、つまり前者から後者への変換が容易になされてしまうと、「お節介が過ぎ」「お仕着せが強くなる」(医療の問題なら、パターナリズムとなるということだろう)。文字通りに、親子関係なら、親は子に対して、この距離が狭い場合が多いのではないか。いずれは、それは「強制」へと至ることになるかもしれない(「○○しなさい。これはお前のためを思って言っているのだぞ!」)。

他者を慮って、自分がされていやなことは相手に対してもしないというのは、何か可視的な行為をするということではないので、他者に対してその慮りが伝わっているのかどうか、不安になってしまう。それゆえ、「優しさ」と称して(思い込んで)、自分の価値観でよかれと思うことを、好意や善意から相手に行ってしまう。人間関係が歪になったり、あるいは崩壊してしまったりする、そうした契機からなのではないだろうか。いわば、両者の距離の狭さから、他者が自己の善意の犠牲になっていることに気がつかないからである。

自分に置き換えて他者のことを慮るというのは、なかなかに忍耐を要することで、すぐさま「押し付け」に変容してしまうことが常のその背後にあるということを忘れてはならないのだろう。

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